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東京地方裁判所 昭和57年(ワ)11877号 判決 1985年10月28日

原告

山田雅夫

右訴訟代理人弁護士

西村四郎

武本秀範

被告

株式会社サンケイ出版

右代表者代表取締役

神谷光男

被告

清水大三郎

矢村隆男

右三名訴訟代理人弁護士

佐々木黎二

猪山雄治

相原英俊

久留勲

主文

一  被告らは、原告に対し、週刊サンケイには別紙謝罪広告(一)のとおりの、日本経済新聞、京都新聞には、別紙謝罪広告(二)のとおりの謝罪広告を、別紙謝罪広告掲載方法で、それぞれ一回ずつ掲載せよ。

二  被告らは、原告に対し、各自金一〇〇万円及び内金八〇万円に対する昭和五七年五月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  原告のその余の請求を棄却する。

四  訴訟費用は、これを五分し、その一を被告らの、その余を原告の各負担とする。

五  この判決は第二項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは原告に対し、週刊サンケイに、二段抜きで、本文は九ポ活字、その他の部分は二〇ポ活字(ゴシック)として、別紙謝罪広告文案のとおりの謝罪広告を一回掲載せよ。

2  被告らは原告に対し、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、日本経済新聞及び京都新聞の各朝刊社会面に、二段抜きで、本文は五号活字(正楷)、その他の部分は三号活字(ゴシック)として、別紙謝罪広告文案のとおりの謝罪広告を各一回掲載せよ。

3  被告らは原告に対し、各自、金六〇〇万円及び内金五〇〇万円に対する昭和五七年五月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

4  訴訟費用は被告らの負担とする。

5  第3項につき仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁(被告ら)

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  被告株式会社サンケイ出版(以下「被告会社」という。)は、書籍雑誌などの出版及び販売を目的とする会社で、週刊誌「週刊サンケイ」を発行しており、昭和五七年当時、同社の代表取締役であつた被告清水大三郎(以下「被告清水」という。)はその発行人として、被告矢村隆男(以下「被告矢村」という。)はその編集人として、それぞれ同誌の編集、発行業務に従事していた。

2  被告らは、「週刊サンケイ」昭和五七年六月三日号の一七四頁以下において、「陶器の老舗たち吉を大揺れさせている欲望の泥仕合」と題し、別紙記事のとおりの記事(以下「本件記事」という。)を掲載し、同年五月一九日ころこれを発売し、全国の不特定多数の者に閲読させた。

3  本件記事のうち、株式会社たち吉(以下「たち吉」という。)の、昭和五六年夏の社長交代に関する部分は、その見出し部分において、原告を「本家争い画策した悪家老」と呼ぶなど、その内容において、右社長交代が、原告が経営コンサルタントとしての立場を利用して同社の取締役に就任し、同社を乗つ取る意思で、岡田忠治現社長(以下「岡田」という。)と富田敏夫前社長(以下「敏夫」という。)との間の争いを画策して敏夫の追い出しをはかつたものであるかのような印象を一般の読者に与えるものであり、これによつて原告の名誉は毀損された。

4  本件記事の右の部分は、真実に反するものであり、しかも、原告に一度も取材することなく、執筆、掲載されたものである。

5  原告は、昭和三四年以降、経営・労務コンサルタントとして、絶えず、研鑚と努力を重ね誠実に業務を遂行してきたものであつて、この間数々の実績により現在多大の信用を得ているほか、社団法人日本経営労務協会(以下「日本経営労務協会」という。)の理事にも就任しており、その活動範囲も全国的に広範囲に及んでいる。経営コンサルタントにとつて、信用はかけがえのない財産であり、経営コンサルタントがその立場を利用して会社の乗つ取りを図つたかのような報道がなされれば、その事実の有無を問わず、そのこと自体経営コンサルタントにとつて致命的な打撃である。しかも、このことは、その報道が、いわゆる三流の週刊誌においてなされたのであればともかくも、全国に名の知られた一流週刊誌においてなされた場合であり、かつ知名度の高い会社についてのものである場合はなおさらである。そして、現に、本件記事はたち吉の内外に大きな反響をもたらし、原告は、これにより、友人からの音信も跡絶えがちになる等多大の不利益を被つた。

6  原告が、本件記事の掲載によつて被つた精神的損害を慰謝するには金五〇〇万円の慰謝料をもつてするのが相当である。

7  原告は、被告会社に対し、昭和五七年六月二五日、書面により厳重に抗議を申し入れるとともに謝罪広告の掲載を求めたが、被告会社がこれに応じようとしないのでやむなく本訴を提起することとし、昭和五七年八月二日、原告訴訟代理人弁護士二名との間において、報酬として金一〇〇万円を支払うことを約して、訴訟委任契約を締結した。

よつて、原告は、被告らに対し、名誉及び信用回復のため謝罪広告の掲載並びに不法行為による損害賠償請求権に基づき、各自金六〇〇万円及び内金五〇〇万円に対する不法行為の為された日である昭和五七年五月一九日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払をそれぞれ求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1、2の事実はいずれも認める。

2  同3は争う。

3  同4の事実は否認する。

4  同5の事実は知らない。

5  同6は争う。

6  同7の事実のうち、原告主張の日及び方法で原告が被告会社に抗議を申し入れ謝罪広告の掲載を求めてきたことは認めるが、その余は知らない。

三  被告らの主張

1  本件記事の内容について

(一) 原告が指摘する部分の記事内容は、たち吉京都本社の一社員が、次の内容等を述べていることを紹介しているにすぎない。

(1) 原告が経営コンサルタントとしてたち吉に関与してきたこと

(2) そして二年前に取締役に就任したこと

(3) 原告が当時、副会長であつた岡田と社長であつた敏夫とのケンカを作りあげたに違いないと思われること

(4) 岡田は、原告を協力者として「本家」を乗つ取る意思をもつているに違いないこと

(5) 専務の長田伸一(以下「長田」という。)は誰にも相手にされず、口ばかり理論家ぶつて何もしないから、みんなから嫌われていること

(6) 従つて、現在は、原告がナンバー・ツウで、次期社長候補であること

(7) 敏夫は、追放されたのではなく、「本家」争いに嫌気がさして自分から飛び出したと思われること

(二) 従つて、右記事自体、一般の読者に対して、原告が経営コンサルタントとしての立場を利用してたち吉の取締役に就任し、原告が「本家」を乗つ取る意思をもつていた、という印象を与えるものでないことは、明白である。

(三) 右記事のうち、原告の名誉に係わることは、前記(一)(3)の原告が当時副会長であつた岡田と当時社長であつた敏夫とのケンカを作り上げたとする点だけである。

2  掲載目的について

(一) 本件記事の取材は、昭和五七年五月四日、デスクに対する匿名の電話によつて開始され、その取材のなかから、次の事実が判明した。

(1) たち吉においては、同族会社のため一部の同族の専横のままに人事が執り行われている。

(2) 昭和五七年の異常な人事異動は前年の社長交代の余波である。

(3) この社長交代の騒動に関与した重要な人物として原告が存在している。

(4) その騒動の余波のため未だにたち吉の内外が揺れ動いている。

(5) たち吉の経営者に関して不正な部分が存在する。

(6) これらの同族の内部の紛争、専横により従業員が迷惑を受けている。

(二) 被告らは、右事実が、年商一七三億円をあげ、業界のモラルを形成すべき陶器小売業界最大手を誇るたち吉に起こつていること、たち吉の従業員は、七八五名(昭和五六年一二月調査)もおり、その影響は極めて大きいこと、更にたち吉自体に内部腐敗に対する自浄行為を期待できないこと等から、良識ある一般従業員の代弁として、たち吉経営者のモラルと責任を明らかにして猛省を促そうとして本件記事を掲載した。

3  本件記事の真実性について

(一) たち吉の内部においては、かねて、自己を「天皇」と同じであると称する会長富田忠次郎(以下「忠次郎」という。)、たち吉の事業を「家業」と称する岡田と、資本と経営を分離して会社経営をすることが近代経営の基盤であるとする敏夫との間で、意見の対立があつたところ、このことは、昭和五年夏の本部方針会議における両者間の論争により表面化し、右論争が同族経営者間の「泥試合」の様相を呈してきたことを見かねた原告が、両者を右会議の席上、叱責するまでに至つた。

(二) この会議の後、岡田は忠次郎に「収拾策に就きまして」と題する書面を提出し、その写しは岡田から原告にも届けられた。右書面の中には、岡田はもはや、同一会社において敏夫と経営を共にしていくことは不可能であると認識していること、従つて、敏夫に経営を任せて、自分達の財産保全策を慎重に考えていくか、敏夫をたち吉から追い出すか、岡田自身が退くか、たち吉を分割して岡田と敏夫とは別々の会社の経営をするかのいずれかの収拾策を立てなければならない旨が記載されていた。

原告は、右書面を読み、本部方針会議での敏夫と岡田との意見の対立が、右書面に記載されているような収拾策を立てなければならない程、深刻でかつ、根深く、癒し難いものであることを明確に認識した。

(三) 原告は、かねてから定年制の適用のない常務取締役以上の地位につくことを画策し、二度にわたり、その旨敏夫に申し入れていたが、それは容れられなかつた。そこで、原告は、敏夫または忠次郎、岡田のいずれかの側に属することによつて、常務取締役就任を実現すべく、情報収集等の準備をしていた。

(四) 昭和五六年五月下旬ころ、敏夫が出版することにした著書の中の「資本と経営の分離とは何だ」という項目について忠次郎から意見を求められた原告が、忠次郎に対し、右項目は、資本家である忠次郎と岡田に対し、経営からの退陣を要求しているものである旨指摘したため、忠次郎は岡田と共に、敏夫に対し、文書で右項目の削除を要求し、右項目について各取締役の意見を聞くため臨時取締役会を開催し、更には、事前に建築に同意しているにもかかわらず、敏夫が忠次郎所有地上に建築しようとしていた建物について工事の中止を要求するまでに至つた。敏夫も、これに対し、忠次郎との養親子関係の解消を決意し、養子離縁届用紙に署名捺印のうえ忠次郎に届け、両者の感情的対立が激化した。

(五) 昭和五六年五月下旬ころに忠次郎から敏夫の愛人問題の解決を依頼された原告は、そのことを契機に得た情報を忠次郎夫人に伝え、養親子間、敏夫夫妻間の精神的亀裂を拡大しようとしたが、そのことが同年六月一八日の敏夫との電話のやりとりで、敏夫に判明したため、忠次郎、岡田の側に接近していつた。

(六)(1) 原告の右のような情報操作により、養親子関係の対立は頂点に達し、昭和五六年六月一九日、忠次郎夫妻は協議離縁することに同意して、先に敏夫から交付を受けていた養子離縁届用紙に署名捺印し、原告及び岡田が証人として署名捺印した。そして忠次郎は、秘書の西口儀一(以下「西口」という。)に下京区役所への提出を命じた。

(2) 一方、敏夫は、同日昼ころ、原告を食事に誘い、離縁意思はないこと、同月二二日に敏夫の実父が忠次郎と会つてこの問題について話し合うことを伝えた。

(3) 西口は、同日午後二時三〇分ころ、電話で原告に対し、右届書には余分の記載がありこれを削除して訂正印を押印しなければ受理されないとして、その指示を求めた。原告は、敏夫に離縁意思がなくなつていることを知りながら、これを伏せ、西口に対し、形式的なことであるから「富田」の判を調達して訂正印を押印するよう指示し、西口は同日の受付時間の最終時ころ、届出を終えた。

(4) その間に、敏夫から原告に対し右用紙の所在についての問合わせがあつたが、原告は弁護士杉島勇(以下「杉島弁護士」という。)の手許にある旨、虚偽の回答をしている。

(七) 協議離縁届出を強行した後、敏夫が、上島珈琲株式会社(以下「上島珈琲」という。)に対し、たち吉が有していたコーヒーに関する「アダム・アンド・イヴ」の商標権の使用許諾をし、その使用許諾料を敏夫が代表取締役をしている株式会社アダム・アンド・イヴ(以下「アダム・アンド・イヴ社」という。)が取得する契約をしていることが判明したこと、敏夫が否定していた愛人をアダム・アンド・イヴ社の架空社員に仕立てて給料を支払つていた事実を裏付ける証拠を、原告が入手したうえ、忠次郎に届けたことから、忠次郎は、敏夫を不正な職権利用行為をしていると指摘して責めた。

離縁及び右指摘により、敏夫は経営意欲を失い、たち吉の社長及び取締役を辞任し、アダム・アンド・イヴ社の経営に専念することになつた。

同年六月二六日、たち吉の臨時取締役会において後任の社長人事について話し合われ、忠次郎から、次回株主総会まで社長代行を置く案が提案されたが、原告が、岡田の社長就任案を提案し、これが多数を占め、ここに原告が推薦した岡田社長が実現し、岡田社長の後盾として原告の存在がクローズアップされた。

(八)(1) 岡田が社長に就任した後、原告及び岡田は、敏夫がたち吉に復活するのを虞れ、たち吉とアダム・アンド・イヴ社を分断することを決定し、原告が中心になつて、昭和五二年から継続していたたち吉が販売している洋陶器のブランドである「アダム・アンド・イヴ」「リッチフィールド」の商品企画・広告デザイン・販売促進関連企画のデザイン等の義務をアダム・アンド・イヴ社に委託する契約を突然解約するという行動に出た。ところが、昭和五四年三月から「アダム・アンド・イヴ」の商標権が、アダム・アンド・イヴ社に譲渡されていたため、たち吉の洋陶器の重要な商標権が解約をした受託先に残つたままとなつた。そこでたち吉には、「アダム・アンド・イヴ」の商標権を取り戻す必要が生じ、一方、アダム・アンド・イヴ社にはたち吉との業務委託契約を復活させることの必要性が生じ、このことから、たち吉とアダム・アンド・イヴ社との紛争が、敏夫と岡田との「ケンカ」の様相を呈してきた。

(2) 岡田側は、敏夫が社長の地位を利用して「アダム・アンド・イヴ」の商標権を持ち出してたち吉に返さないということは横領背任であると指摘し、敏夫側は「アダム・アンド・イヴ」の商標権は忠次郎から譲り受けたもので、持ち出したものではなく、右商標権が取り残された形になつたのは、アダム・アンド・イヴ社の社員の生活を無視して、不当に業務委託契約を解約したためであると応酬し、「ケンカ」が繰り広げられていつた。

(九) 岡田社長の早期実現は、原告の提案によつてもたらされたものであること、「アダム・アンド・イヴ」の商標権をめぐる紛争において原告が中心的動きをしたことから、原告は本件記事取材時においてナンバー・ツウであつた。その後、原告は、昭和五九年三月に専務取締役に就任し、昭和六〇年三月にはもう一人の長田専務が取締役を辞任し、現在は名実ともに、たち吉のナンバー・ツウである。

(一〇) 以上に照らせば、本件記事内容が真実であつたことは明らかである。

4  本件記事内容を真実であると信じた相当性について

(一) 原告に関する情報提供

(1) 本件記事の取材の契機になつたのは、昭和五七年五月四日、デスクに対してかかつてきた「たち吉の人事異動が一部の同族の専横のままに行われ、八〇〇名の従業員が<圧搾>されている。」との匿名の電話であつた。

(2) この情報を基にして、担当デスクは、被告会社の従業員(記者)である野原茂樹(以下「野原記者」という。)に取材を命じ、同人はたち吉内外の関係者に対し、電話若しくは面接により取材をし、右情報の裏付けを取つていつた。

(3) 右裏付け取材の中で、野原記者は、次の情報を得た。

(イ) 前社長の敏夫は、原告の陰謀によつて追放された。

(ロ) その根拠となる事実関係として、養子縁組の解消の際における有印私文書偽造の噂がある。

(4) 更に、匿名の電話により、「アダム・アンド・イヴ」の商標権の帰属についての紛争も存在し、これも原告によつて引き起こされたとの情報の提供を受けた。

(二) 原告及びたち吉に対する取材

被告らは、野原記者をして原告に関する情報の裏付け取材を継続させる一方、原告及びたち吉の右情報に関するコメントを得るため、昭和五七年五月一〇日午前一一時に、たち吉京都本社に報道関係取材の窓口として指定された総務部長水野栄二(以下「水野部長」という。)を訪問させ、原告及びたち吉のコメントを得たいので窓口として取り計らつて欲しい旨を申し入れた。ところが、水野部長は、たち吉として右情報を明白に否定するコメントを発するつもりはなく、各個人に対する取材申込みも一切取り次げないとして、右取材の申込みを拒絶し、更に、たち吉は被告会社の関連会社の発行する「夕刊フジ」と広告の取引があるとの一種の圧力とも思える発言をした。そこで被告らは、右情況から、原告及びたち吉からコメントを得る道を塞がれたと判断せざるを得ない立場に追い込まれた。

(三) たち吉退職者に対する面接取材

(1) 野原記者は、同月一一日、四か月前までたち吉の中枢部に所属していた人物に対し面接取材をし、その結果次の事実が明らかとなつた。

(イ) 「アダム・アンド・イヴ」の商標権は、敏夫がたち吉を辞める前に、忠次郎から敏夫に個人的に譲渡されていた。

(ロ) この譲渡について、昭和五六年夏ころ、敏夫が社長の地位を利用して、「アダム・アンド・イヴ」の商標権を、たち吉から持ち出したとの噂がたてられた。

(ハ) これに対し、敏夫が、忠次郎から譲り受けたことを証明する公正証書を、たち吉の責任者クラスに送り付けた。

(ニ) この公正証書を見て、たち吉の一部の取締役から「アダム・アンド・イヴ」の商標権を個人に譲渡するのはもつてのほかだという反発が出て、たち吉と敏夫との間で「アダム・アンド・イヴ」の商標権の帰属をめぐつて紛争が発生した。

(ホ) 最終的に、敏夫が「アダム・アンド・イヴ」の商標権をもつて別会社を作り、たち吉が陶器、金属、ガラスの三品目について、右商標権を三億円で買い取り、右金額がたち吉からアダム・アンド・イヴ社に支払われた。

(ヘ) この三億円の出費の穴埋めのため、今回の異常な人事異動があつたという噂が存在していた。

(2) 野原記者は、右人物がたち吉の中枢にいたことから、右情報はかなり正確なものであると判断し、たち吉内部の役員間における抗争によつてたち吉の従業員がその″トバッチリ″を受けているという構図を確認した。

(四) 文書の提供

更に、取材するうちに、匿名の者から、敏夫が作成し、関係者に配布した社長辞任の経緯を明らかにした文書の提供を受けた。右文書は、次のようなものであつた。

(1) 養子縁組解消に関する部分について

(イ) 敏夫が原告に対し、離縁の意思がないので、届出書を提出しないように申し入れているにも拘らず、原告は、自ら証人となり、協議離縁届の提出を強行した旨の記載があり、添付資料の中には敏夫から協議離縁の意思がないことを原告に取り次いだ経緯についての社長秘書岡部和男(以下「岡部」という。)の自筆のメモ及び敏夫の代理人である弁護士が作成した照会書が存在した。

(ロ) 被告らは、右文書の記載が具体的、かつ、詳細であること、第三者のメモ、弁護士作成の照会書により補強されていることから、原告が協議離縁届けを敏夫の意思に反して提出したと確信することができ、更に、敏夫の文書の全体の流れから、原告が敏夫と忠次郎、岡田との確執を利用し、争いを増幅したのは間違いないと信じた。

(2) 商標権をめぐる紛争に関する部分について

(イ) 「アダム・アンド・イヴ」の商標権をめぐる紛争について次のような記載があり、敏夫がたち吉の社長を辞任した後、業務委託契約の解約に端を発して、たち吉とアダム・アンド・イヴ社との間で商標権の帰属に関する「ケンカ」が存在していたことが窺えた。

① 右商標権の帰属の問題がクローズアップされた時期は、たち吉がアダム・アンド・イヴ社に対し、「アダム・アンド・イヴ」の商標を付した、商品の企画・広告・デザイン等の業務を委託していた契約を、一方的に解約した後であつた。

② 右問題がクローズアップされた理由は、たち吉は、「アダム・アンド・イヴ」の商標権は当然にたち吉に帰属しているものとして右契約を解約したところ、右商標権がアダム・アンド・イヴ社に帰属していたことが判明したためであつた。

③ そのため、初めて右商標権の帰属が問題となり、敏夫が「たち吉」を辞めるときに「アダム・アンド・イヴ」の商標権を持ち出したとの風評がたつた。

④ しかしながら、事実は全く相違し、右商標権は、敏夫がたち吉の社長を辞めるより以前に、忠次郎から、アダム・アンド・イヴ社に譲渡されていたものであつた。

⑤ その譲渡の理由は、アダム・アンド・イヴ社を「アダム・アンド・イヴ」商標のイメージ管理会社にする目的をもつたものであつた。

(ロ) 更に、商標権をめぐる他の紛争について、次のような記載もあり、原告が、アダム・アンド・イヴ社とたち吉との間の商標権の帰属に関する争いを拡大する動きをしたことが窺えた。

① 当時たち吉とアダム・アンド・イヴ社の両社の社長を兼ねていた敏夫が、部下からコーヒーに関する商標権がアダム・アンド・イヴ社に帰属することを確認し、アダム・アンド・イヴ社が上島珈琲にその商標権の使用を許諾する旨の契約をした。

② ところが、右契約後になつて、右商標権がたち吉に帰属していたことが明らかになつた。

③ そのため、敏夫は、この調整を計るため、アダム・アンド・イヴ社に右契約上の金員が入金された時点で、たち吉に切り換えることを予定していた。

④ ところが、原告は、アダム・アンド・イヴ社が右商標権の使用許諾をしたことに殊更にこだわり、上島珈琲に対し、再三に亘つて、アダム・アンド・イヴ社を訴えてくれと依頼していた。

(五) その他の取材について

野原記者が、更にたち吉内外の関係者に対し取材を進めたところ、次のような情報を得た。

(イ) 「アダム・アンド・イヴ」の商標権の帰属をめぐる紛争に関し、前記提供を受けた文書以外にも「声明文」と題する書面が配布され、これには右紛争がより詳細に記述されており、敏夫がたち吉の社長を辞任した後、たち吉とアダム・アンド・イヴ社との間で右商標権をめぐつて相当な情報合戦が行われていた。

(ロ) たち吉の社内外の多くの人にとつては、敏夫が養子を離縁されたち吉の社長を辞任した後は、業務委託契約の解約及び商標権の帰属をめぐる紛争は、たち吉の現社長である岡田と旧社長である敏夫との「ケンカ」として映つていた。

(ハ) 原告は労務問題を専門とする経営コンサルタントであり、人事紛争の処理を得意としている。

(ニ) 敏夫辞任後のたち吉は、同族会社の弊害がその極に達し、第三者としてたち吉に招聘された原告が中心となつて経営全般の指導に当たり、当然にアダム・アンド・イヴ社との問題に対処していた。

(ホ) 業務委託契約は、「アダム・アンド・イヴ」の商標権がどこに帰属しているのかよく知らない原告が主体となつて解約され、このためたち吉とアダム・アンド・イヴ社との紛争が発生拡大していつた。

(ヘ) 右紛争拡大が社員間に伝播した段階で、同族役員間の経営力低下が拍車をかけ、社員間に各種の観測がなされ、たち吉内部で同族以外の実力者として目されていた原告の行為が公然と取り沙汰されていた。

(六) 本件記事の作成

(1) 以上の取材の結果、野原記者は、匿名の者から提供を受けた敏夫の辞任の経緯を記載した文書及び声明文それ自体を中心に、またはそこに記載された生の事実をそのまま利用して記事を構成することは、一方当事者の作成した文書であるのでこれを避け、紛争当事者以外の人から裏付けをとることができた事実だけに信頼を措くべきであると考え、次のように判断した。

(イ) 敏夫と忠次郎、岡田との間には、離縁及びたち吉の社長辞任をめぐる確執以外に、社長辞任後の業務委託契約の一方的解約及び「アダム・アンド・イヴ」の商標権の帰属に関する、たち吉新社長の岡田とアダム・アンド・イヴ社の敏夫との確執が存在していた。

(ロ) 原告は、右二つの確執のいずれにも深く関与し、特に、商標権の帰属に関する確執については、その中心になつていた。

(ハ) 商標権の帰属に関する確執が発生した発端となる業務委託契約の解約は、「アダム・アンド・イヴ」の商標権がアダム・アンド・イヴ社に帰属した時には取締役に就任していなかつた原告が、右権利の帰属に気付かず、強行したためである。

(2) 右判断に基づき、野原記者は、商標権に関する確執については、「四か月前にたち吉を退職し、現在敏夫のアダム・アンド・イヴ社と取引をしているデパート関係者のS氏」のコメントとして構成し、敏夫と忠次郎、岡田との確執は、本件異常な人事異動の原因となつた商標権の帰属をめぐるものに絞ることにし、これに添う、たち吉京都本社の匿名の従業員からの電話による原告に関するコメントを、「京都本社の社員」のコメントとして構成して、本件記事を作成した。

(七) 以上のとおり、野原記者は、多数のたち吉内外の関係者から取材をし、それによつて得られた結果及び入手した文書を慎重に吟味し、真実に合致すると確信できた事実だけを素材として本件記事を作成したものであつて、原告が指摘する部分の記事が真実であると信ずるにつき相当な理由があることは明らかである。

5  以上のように、被告らは、本件記事に記載されている事実が公共の利害に関する事実であり、かつ右事実が真実であるので、公益を図る目的のもとに本件記事を掲載した。仮に右事実が真実でなかつたとしても、被告らには、右事実が真実であると信ずるについての相当な理由があつた。

四  被告らの主張に対する認否すべて争う。

第三  証拠<省略>

理由

一請求原因1、2の各事実は、いずれも当事者間に争いがない。

二そこで、本件記事の内容につき検討するに、本件記事中原告に直接関係する部分(別紙記事中赤線を引いた部分。以下「本件記事部分」という。)は、他の部分と相まつて、次のような趣旨に読みとることができる。

1  昭和五六年当時たち吉の社長であつた敏夫と副会長であつた岡田との間に「本家争い」と称される対立関係が生じ、その結果、敏夫が社長を辞任し、アダム・アンド・イヴ社を作つて独立し、岡田が後任の社長に就任した。

2  敏夫は、「横領背任」を理由に社長を辞任したことになつているが、真実は、原告が岡田に対し、敏夫のやつたことは横領背任であると言つて、岡田をそそのかして、岡田と敏夫との間に対立関係を作出するなどして、敏夫を社長の地位から追い落とそうとしたことによる。

3  原告は、敏夫辞任後の敏夫と岡田の対立に起因するたち吉とアダム・アンド・イヴ社との間の業務委託契約の解消、「アダム・アンド・イヴ」の商標権をめぐる争いに深く関与している。

三右の記事内容は、文脈上原告のことを指していると認められる「″本家争い″画策した悪家老」との中見出しと相まつて、原告の名誉を毀損するものであることは明らかである。

四そこで、以下被告らの違法性阻却事由についての抗弁につき検討することが、右検討にあたつては、本件記事部分に記載された事実が公共の利害に関するかどうか、本件記事部分が公益を図る目的で掲載されたものかどうかという点はひとまず置き、右事実が真実であつたかどうか、仮に真実でなかつたとして、被告らにおいて、右事実が真実であると信ずるにつき相当の理由があつたかどうかという点から検討することとする。

五本件記事部分に記載された事実の真実性について

1  <証拠>を総合すれば、次の事実が認められ、<証拠>のうち右事実に反する部分は採用することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(一)  敏夫の妻である富田泰子は、忠次郎の長女であり、敏夫は、忠次郎夫妻の養子であつたか、忠次郎がたち吉の社長、敏夫が同社の専務取締役であつた当時、敏夫は一時同社の物流センターに左遷されていた。しかし、昭和五四年一〇月、忠次郎が会長に就任するのと同時に、敏夫も同社の社長に就任した。

(二)  敏夫は以前から、たち吉において洋陶器の企画、開発に携わつており、昭和五二年八月ころ、従前のたち吉の洋陶器関係のデザイン、企画、宣伝等を担当していた部門を独立させた形で、アダム・アンド・イヴ社が設立されてからは、同社の代表取締役に就任していた。

(三)  敏夫が、たち吉の社長に就任した後は、同社における洋陶器の占める比重が大きくなつてきたこともあつて、同社の経営全般を敏夫が実質的に掌握するようになつた。

(四)  敏夫は、たち吉の社長就任後、昭和五四年一二月ころ、ジャズ・クラブの経営を発案し、実行に移そうとしたが、この点については忠次郎と意見が対立した。

(五)  その後も経営方針をめぐつて、忠次郎と敏夫との間に対立が深まり、昭和五五年三月、敏夫が養子離縁届に署名捺印したものを忠次郎に渡し、その旨を公言するという事態にまで至つた。しかし、結局右の離縁は実行されなかつた。

(六)  昭和五五年七月、たち吉の本部方針会議において、敏夫から、忠次郎、岡田に対し、忠次郎が日頃用いている「自分はたち吉においては天皇と同じだ」という言葉、岡田が日頃用いている「家業」という言葉は、経営に携わつている社員の意欲をそぐものであるから用いないようにしてもらいたい、資本と経営を分離することが近代経営の基盤であり、そうすることによつて社員も経営に参加できる旨の申し入れがなされ、たち吉の株主でもある忠次郎、岡田と敏夫との間で意見の対立が生じた。右会議における対立は、原告の注意、とりなしにより一応おさまつたが、後日、岡田は忠次郎に対し、敏夫が社長を退陣するか、会社を分離して岡田と敏夫とは別個の会社を経営するという考えまで含んだ意見書を提出するに至つた。

(七)  昭和五六年六月一日、敏夫の著書「ガッツとオリジナリティがあれば道は開けるさ」が発売されたが、右著書中の「資本と経営の分離とは何だ」との項目について、忠次郎と岡田は敏夫に対し、削除するよう文書で要求した。更に、忠次郎は、右著書に関し、たち吉の顧問弁護士、公認会計士の出席を求めたうえ臨時取締役会を招集し、意見を求めた。そして、同月一〇日ころ、敏夫の発案により、右著書の内容について、取締役に対するアンケートが実施されるに至つた。

(八)  また、敏夫は、従前自宅として使用していた忠次郎所有地上の忠次郎と共有の建物を取り壊し、自宅を新築しようとしていたところ、昭和五六年六月上旬、忠次郎から口頭で工事の中止を要求された。その後、同年七月一五日ころには、忠次郎は、敏夫に対し、工事の中止及び土地の明渡しを内容証明郵便で、要求するに至つた。

(九)  敏夫は、前記敏夫の著書及び自宅新築に関する忠次郎の対応に対し、養親子関係を解消することを決意し、昭和五六年六月五日ころ、養子離縁届用紙に署名捺印して、忠次郎の許に届けると共に、忠次郎に対し、前記対応を非難し、「もう茶碗好きの年寄りでいいじやないか」と決めつけ、離縁意思が固いから速やかに離縁手続をすることを求める旨の書簡を送付した。

(一〇)  右のような敏夫の態度に対し、忠次郎は離縁手続をとることを留保し、原告及び杉島弁護士が敏夫に対して翻意を求めたが、敏夫の意思は固く、実際に養子離縁届が京都市下京区役所に提出される前日である昭和五六年六月一八日まではその離縁意思に変化はなかつた。

(一一)  原告は、昭和三七年ころから経営コンサルタントとしてたち吉との間で顧問契約を締結していたところ、昭和五四年六月、忠次郎の求めに応じて、たち吉の非常勤取締役に就任し、同族会社であるたち吉内部において第三者的立場で意見を言うという役割を果たしてきていた。昭和五六年五月三〇日、忠次郎から敏夫の愛人問題について相談を受け、敏夫、その愛人及び愛人の父親と会うなどして相談に乗るとともに、忠次郎と敏夫との間が険悪になるにつれて、両者の仲介役として行動していた。しかし、同年六月一八日、愛人問題について原告が養母に告げ口をしていると推測した敏夫が、原告に対し、電話でその旨非難してきたことに立腹し、忠次郎と敏夫との間の私的な問題には関与しないことを決意した。

(一二)  昭和五六年六月一九日午前中、原告が右決意を忠次郎に伝えたところ、既に敏夫との離縁もやむを得ないと考えていた忠次郎は、右離縁届の提出を決意し、敏夫が既に署名捺印して忠次郎に届けていた養子離縁届用紙に妻とともに署名捺印して、秘書の西口に対し、右用紙を下京区役所に届けるよう指示して、比叡山ホテルに出かけた。その際、同席していた原告と岡田が、証人として署名捺印した。

(一三)  同日、敏夫は原告を昼食に誘い、その席で、離縁意思を翻したこと、同月二二日に敏夫の実父が忠次郎に会つてその旨伝えること等を話したが、原告は、前記のとおりこれらのことには関与しないと決意していたので、特に敏夫の話を忠次郎に伝えるということはしなかつた。

(一四)  忠次郎の指示を受けた西口は、一九日午後から下京区役所に出向いたが、養子離縁届に不必要な記載がされており、その訂正印(捨印)が必要である旨係員から指摘され、午後二時半ころ、忠次郎が不在のため、右届出用紙の証人欄に署名捺印していた原告に対し、電話で、捨印をどうすれば良いかという相談をした。原告は、杉島弁護士に電話で相談したところ、敏夫の印を貰うよう指示されたので、敏夫の部屋に電話を入れたところ、電話を受けた岡部から敏夫が外出中であることを告げられた。そこで再び杉島弁護士に相談したところ、行政書士に相談するよう指示されたので、その後、再び西口から電話がかかつてきた際に、右杉島弁護士の指示を西口に伝えた。その後、午後四時半ころ、西口が原告に対し、電話で、右届出が受理されたことを報告した。

(一五)  一方、敏夫は同日午後三時すぎころ帰社し、岡部から原告の電話についての報告を受けると、岡部に命じて、原告に電話をかけさせ、敏夫としては離縁意思を撤回したことを告げさせると共に、届出用紙の所在を確認させ、その通話内容を録音させた。原告は、届出用紙の所在について、既に西口が手続をするため下京区役所に持参していることは告げず、杉島弁護士の手許にある旨回答した。敏夫は右通話内容を録音したテープを確認したが、下京区役所、杉島弁護士らに対し、届出用紙の所在の確認及び離縁意思の撤回を告げるということはしなかつた。

(一六)  他方、忠次郎は、昭和五六年四月ころから、たち吉の参事であり、アダム・アンド・イヴ社の経理をも担当していた高谷英次(以下「高谷」という。)に命じて、同社の経理内容を調査させ、同人から、次のような報告を受けた。

(1) 同社が、たち吉の有する商標権について、上島珈琲との間で使用契約を締結していたこと。

(2) 同社から、従業員ではない敏夫の愛人に対し、給料等が支払われていたこと。

(3) 同社の決算書が敏夫の指示で改ざんされていたこと。

(一七)  敏夫は、忠次郎との離縁が成立したこと及び忠次郎から右の事実を指摘されたこと等から、昭和五六年六月二五日、たち吉の社長及び取締役について辞意を表明し、翌二六日、正規の手続を経て同社の社長及び取締役を辞任した。そして、敏夫の後任として、岡田が社長に就任した。

(一八)  なお、敏夫は、離縁届が受理された後、私文書偽造、同行使、公正証書原本等不実記載罪を被疑事実として、忠次郎に対する告訴状を準備したが、結局思い直して右告訴状は提出しなかつた。

(一九)  敏夫辞任後である昭和五六年七月八日ころ、たち吉は、敏夫が代表取締役をしているアダム・アンド・イヴ社に対し、同社との間の商品デザイン業務等の委託を中止し、同社からの出向社員の引き揚げを求めた。

(二〇)  「アダム・アンド・イヴ」の商標については、昭和四九年七月一日にたち吉が登録し、同年一一月一日に忠次郎に譲渡され(登録は昭和五一年一月二二日)、昭和五一年五月二九日、たち吉に対する専用使用権設定契約が締結され(登録は同年九月二四日)た後、昭和五三年一〇月一六日、アダム・アンド・イヴ社に譲渡(登録は昭和五四年三月一九日)されていたため、たち吉社内において、たち吉社長を辞任した敏夫が代表取締役をしているアダム・アンド・イヴ社に、たち吉の洋陶器の中心である「アダム・アンド・イヴ」の商標権が帰属していることに反発する意見が出るようになり、たち吉は、アダム・アンド・イヴ社から右商標権を買い取ることにし、たち吉からの商品デザイン業務等の委託の再開を希望するアダム・アンド・イヴ社との間で種々のかけひきが行われた。

2  右事実に照らせば、敏夫のたち吉の社長及び取締役辞任の理由とその後のたち吉とアダム・アンド・イヴ社との関係について、次のとおり認められる。

(一)  敏夫と岡田との間には、資本と経営の分離をめぐる意見の対立が存在していたことは事実であるが、敏夫のたち吉社長及び取締役辞任は、右岡田との意見の対立に起因するものではなく、むしろ、忠次郎との会社経営及び私生活における意見の対立並びにそれに起因する忠次郎夫妻との養親子関係の解消によるものであると認められる。敏夫が、本件証人尋問において、右辞任の際には敏夫と岡田との間に対立がなかつた旨供述していることは当裁判所に顕著である。

(二)  また敏夫辞任後のたち吉とアダム・アンド・イヴ社との対立については、同社の代表取締役である敏夫とたち吉の社長に就任した岡田との対立というより、むしろ、たち吉会長として同族のトップに位置している忠次郎と敏夫との従前の対立関係の延長としてとらえるべきものである。

3  従つて、本件記事部分中、原告が岡田をそそのかして、岡田と敏夫との対立をつくり上げたとする部分は少なくとも真実とは認められないけれども、一応、敏夫の辞任の理由となつた忠次郎との対立、離縁について原告が画策したものであるかどうかを以下において検討することにする。

4  敏夫と忠次郎との対立及び離縁についての原告の関与について

(一)  前記各事実及び前掲各証拠(ただし、後記採用しない部分を除く)を総合して検討すると

(1) 敏夫と忠次郎の対立関係において、原告が何らかの形で関与したのは、敏夫の愛人問題、アダム・アンド・イヴ社の経理内容の調査、養子離縁届の提出だけであり、その余はいずれも敏夫と忠次郎との間の個人的な対立であつた。

(2) 敏夫の愛人問題は、敏夫の社長辞任の直接のきつかけとは考えられないし、原告の関与も、前記のとおり忠次郎からの依頼を受けて敏夫、愛人、その父親などと会つて相談に乗つただけであり、ことさら、右愛人問題を利用して敏夫と忠次郎との間の対立関係を作出、助長させようとしていたものとは認められない。

(3) アダム・アンド・イヴ社の経理内容の調査については、前記のとおり忠次郎が高谷に命じて行わせていたが、原告が関与したのは、忠次郎から高谷に対する伝言を伝える程度であり、ことさら前記対立関係の作出、助長を企図していたとは認められない。

(4) 養子離縁届の提出については、確かに、原告は、昭和五六年六月一九日の昼食の際、敏夫から離縁意思を撤回した旨伝えられながら、そのことを忠次郎に伝えたりあるいは西口に対し届の提出をやめるよう指示せず、敏夫の命を受けた岡部からの問い合わせに対して、既に西口が下京区役所に提出のため赴いているにもかかわらず、届出用紙は杉島弁護士の手許にある旨回答していることが認められるけれども、他方、右届出については、同日午前中、原告が敏夫の話をきく前に忠次郎が決意して、所定の記入及び忠次郎夫妻の署名捺印をしたうえで、忠次郎が西口に対し提出手続をすることを命じていたのであつて、原告が敏夫の話をきいた時点では、既に忠次郎は比叡山ホテルに行き不在であつたことは前記のとおりである。また、原告は西口から捨印が必要である旨の連絡を受けた後、敏夫から印をもらうべく敏夫に連絡をとろうとしたことは前記のとおりであるが、原告において、敏夫の意思に反して右届出を強行しようという意図があつたとしたら、右のように敏夫に対して捨印を求めようとするものとは考えられない。更に、敏夫は、原告や杉島弁護士の説得にも拘らず、前日まで、離縁意思を強固に有していたことは前記のとおりである。

(5) 右によれば、前記の事実から、原告がことさらに、敏夫の意思に反して離縁を強行しようとしていたものとは推認することはできない。

(6) むしろ、捨印が欲しい旨の原告からの電話があつたことについて岡部から報告を受けた敏夫としては、右の電話の趣旨から、養子離縁届が提出される可能性が高いことは容易に想像がつくはずであると思われるのであるから、真実、離縁意思を撤回しているのなら、忠次郎、あるいは杉島弁護士に対し、直接問い合わせ、その旨を伝えるのが自然であるところ、前記のとおり、岡部と原告との通話内容を録音させただけで、右のような行動をしてはいないことに照らせば、果たして敏夫において真実離縁意思を撤回していたのかどうか極めて疑わしいと言わざるを得ない。

(二)  証人富田敏夫は次のように供述し、前掲甲第八号証の一、乙第一号証の二、第三号証の一にも右に沿う記載が存する。

(1) 敏夫の著書をめぐる対立において、原告が忠次郎に対し、右著書の記載は、株主である忠次郎と岡田に対して、経営から手を引くようにという趣旨であると説明した。

(2) 敏夫の愛人問題については、原告がたち吉の各ブロックから敏夫の女性関係の情報を収集し、忠次郎夫妻に報告していた。

(3) アダム・アンド・イヴ社の経理内容については、原告が高谷に命じて調査をさせ、その結果を忠次郎に報告していた。

(4) 敏夫辞任後の、たち吉からアダム・アンド・イヴ社に対する商品デザイン業務等の委託の中止は、忠次郎、岡田、原告の三名だけで決定された。

(三)  そこで右の点につき検討する。

(1) (二)(1)記載の点については、敏夫は、辞任後忠次郎に会つた際に、前記著書の趣旨について、忠次郎としては(二)(1)記載のとおり解釈しており、原告もその趣旨であると言つていた旨告げられたことから(二)(1)のように推測した旨述べているが、前記認定の昭和五五年のたち吉本部方針会議における敏夫と忠次郎、岡田とのやりとり、昭和五六年六月五日ころの敏夫の忠次郎宛の書簡の内容に照らせば、敏夫の著書の趣旨につき忠次郎が前記のように解釈することは不自然ではなく、またことさらに原告が忠次郎に対して、そのように思わせようとしていたと認めるに足る証拠はない。

(2) (二)(2)記載の点については、敏夫自身推測である旨述べており、他に原告がそのような行動をとつたと認めるに足りる証拠はない。また、前掲甲第六号証によれば、原告は、敏夫の愛人問題については、その相談を依頼してきた忠次郎に対しもつぱら報告していたことが認められるのであつて、ことさら原告が敏夫と忠次郎夫妻の間に亀裂を生ぜしめるため忠次郎夫人に報告をしていたと認めるに足りる証拠もない。

(3) (二)(3)記載の点については、敏夫は、原告の依頼で高谷がアダム・アンド・イヴ社の帳簿を見せていたということを聞いたことを根拠としているが、前記のとおり、原告は、アダム・アンド・イヴ社の経理内容の調査を高谷に命じた忠次郎からの伝言を高谷に伝えただけであると認められるのであるから、右の点だけでは、前記認定事実を左右するものとは言えず、原告が独自に調査を命じていたというのは敏夫の推測に過ぎないものと考えられる。

(4) (二)(4)記載の点については、敏夫は、水野部長から、前記業務委託の中止は「上」が決定したと聞いたということを根拠としているが、右の水野部長の発言内容から、右決定に原告が深く関与し、重要な役割を果たしたものとまでは即断することができず、右の点は敏夫の推測に過ぎないものと言うべきである。

(四)  以上のように前記(二)記載の点は、いずれも敏夫の推測に過ぎず、前記認定の各事実に照らして、直ちに採用できるものではなく、他に前記(一)の認定を覆すに足りる証拠はない。

5  以上によれば、原告が、敏夫を辞任に追い込むために、ことさらに敏夫と忠次郎との対立関係を作出、助長したり、あるいは敏夫の意思に反して養子離縁届の提出を強行させたと認めることはできず、本件記事部分の内容が真実であるとは認められない。

六被告らにおいて本件記事部分に記載された内容が真実であると信ずるにつき相当の理由があつたかどうかについて

1  本件記事が掲載されるまでの経緯について

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(一)  本件記事に関する取材は、昭和五七年五月四日、被告会社編集部の通称特集班の編集部次長(通称「デスク」)の許にかかつてきた、たち吉の社員と名乗る匿名の者からの、たち吉では経営陣の専横のままに、異常な降格人事が行われており、社員がその犠牲になつている旨の電話による情報提供に基づいて開始され、翌五日、右担当デスクから取材を命じられた野原記者は、別紙取材経過及び内容一覧表記載のとおり取材した。

(二)  被告会社編集部(部長は被告矢村)では、野原記者の取材結果及び右取材期間中に匿名者から送付された敏夫の書いた社長辞任の経緯についての文書(乙第一号証の一ないし七)及び声明文(乙第一一号証)をもとに、昭和五七年五月一四日、右取材内容を記事にすることを決定し、野原記者に執筆を命じた。

(三)  野原記者は、前記取材にあたつては、各取材内容のうち重複する部分を事実として把えるという方針を採用し、各取材の相手方が各取材内容の事実を知つている理由等については確認しなかつた。そして、右取材結果に基づいて、敏夫作成の文書の内容は参考程度として、同月一七日、本件記事を執筆した。

(四)  野原記者が、原告を含むたち吉の取締役に対する取材をしなかつたのは、たち吉における会社関係の取材の窓口として指定された水野部長が、同記者の取材の意図を知り、右取材申入れを拒否したので、同記者が、右取材は不可能と判断したためである。

(五)  被告矢村は、デスクを通してなされる野原記者の取材記者の取材結果の報告が、敏夫作成の文書と一致する点が多いと判断したこと、右文書に資料として添付されている弁護士作成の照会書に原告の関与が記載されていること及び水野部長が取材拒否をするにあたり、たち吉としては何ら反論しなかつたことから、右取材結果は信用性が高いものと判断し、原告を含むたち吉の取締役に対する取材のないまま本件記事の掲載を決定した。本件記事中の「″本家争い″画策した悪家老」という中見出は、被告会社編集部において付けたものである。

2  取材における取材対象及び取材の評価方法について

(一)  右事実に照らせば、本件の取材のうち、別紙取材経過及び内容一覧表記載1及び7の取材対象は、相手方から被告会社に対し、積極的に情報提供をしようとしたものであり、同表記載3、5の取材対象は、それぞれ、同表記載1、3の者からの紹介であるが、野原記者が行つた面接、電話取材のうち、敏夫の社長辞任及びその後の紛争に原告が関与している旨の具体的情報を提供したのは、右の者らだけであることが認められる。

(二)  <証拠>によれば、昭和五六年九月一一日付で、敏夫がたち吉社員に対して、自己の社長辞任の経過及びそれに関する原告の関与を記載した文書を作成配付していることが認められ、被告矢村及び野原記者が前記取材の過程において、右文書が配布されていることを知つていたことは前記のとおりである。

(三)  更に、被告矢村及び野原記者としては、前記の取材の過程において、敏夫の辞任が同族会社における同族間の対立に起因するものであるということは容易に理解できたと考えられるのであるから、右の点及び前記(一)、(二)の各点に照らせば、前記(一)の取材対象者の提供した情報につき、その情報源を確認することなく、単に右情報内容が重複し、敏夫作成の文書の内容に一致するというだけでは、その内容を信用するに足るとする根拠にはなり得ないものと言うべきである。

(四)  なお、水野部長が野原記者の取材の際に、反論しなかつた点については、それが取材に応じたうえでのことであれば格別、取材を拒否した段階でのものであり、また、<証拠>によれば、右取材に先立ち、水野部長が把握していた被告会社の取材目的は、別紙取材経過及び内容一覧表記載2に関するものであることが認められ、その取材においては原告の具体的関与の有無は内容として表われていないのであるから、水野部長の取材拒否により前記(一)記載の情報について信用性が増すと判断できるものではない。

3  水野部長の取材拒否と原告に対する取材の可能性の有無について

(一)  証人野原茂樹の証言及び被告矢村本人尋問の結果によれば、一般的に、会社の経営者に対する取材は、その窓口として指定された担当者によつて取材拒否をされると事実上困難になることが認められる。

(二)  しかしながら、原告は当時、たち吉の非常勤取締役であり、別途経営コンサルタントとして活動していたのであるから、他の取締役とは異なり、必ずしも水野部長を通さなければ一切取材ができないものとは考えられないし、原告本人尋問の結果によれば、本件記事掲載後、原告の許に、週刊新潮の記者が直接取材に行き、原告が右取材に応じていることが認められることからも、本件の取材の過程で、原告に対する取材が不可能であつたものとは考えられない。

(三)  そして、本件記事部分の基礎となつた情報が、原告にとつて一方的に不利な内容のものであつた以上、原告に対する取材は、記事作成にあたつて不可欠なものであつたと言うことができる。

4  敏夫作成の文書に対する評価と敏夫に対する取材の要否について

(一)  敏夫作成の文書の内容、特に原告に関する部分は、敏夫の推測によるものが多く、その内容が真実であると即断できるものではないことは前記のとおりである。

(二)  敏夫作成の文書に資料として添付されている弁護士の照会書は、その記載から敏夫の代理人の弁護士によつて書かれたものであることが明白であつて、右内容が、敏夫作成の文書の内容と一致するからといつて、それにより右文書の内容の信用性が増すというものではないことは明らかである。

(三)  そして、前記のような同族間の争いという右文書作成の背景事情を考えれば、右文書の内容について、敏夫に再確認する必要性は極めて高いものと言うことができ、右再確認をすれば、その内容が、敏夫の推測に基づくものが多いことが容易に理解できた筈であると考えられる。

(四)  被告矢村は、取材の過程で、敏夫と連絡をとることはできたが、取材拒否のようなことしか聞けなかつた旨供述するが、前掲乙第三号証の一、二、証人富田敏夫の証言、被告矢村本人尋問の結果によれば、敏夫は、本訴が提起された後、自ら積極的に、被告矢村に対し連絡をとり、様々な資料を提供していることが認められるのであるから、本件記事についての取材の過程においても、敏夫に対する取材が不可能であつたものとは考えられない。

5  まとめ

以上を総合すれば、被告矢村、野原記者の行つた本件記事部分についての取材は、その対象の面においても十分とは言えず、その内容の評価の点でも適切とは言えないのであつて、被告らにおいて、本件記事部分記載の内容が真実であると信ずる相当の理由があつたとは認めることはできない。

よつて、その余の点につき判断するまでもなく、被告らの違法性阻却事由の主張は失当である。

七原告が被つた損害と信用毀損について

1  <証拠>によれば、次の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(一)  原告は、昭和三四年から経営労務コンサルタントを開業し、以後、主に京都、大阪、愛知地区を中心とした多くの会社の経営指導、四国地区を除いた東京以西の各地区における各種団体、企業主催の研修、講演会等における指導等を行つてきた。

(二)  また、昭和三三年五月に創立された、経営労務コンサルタント等の団体である日本労務管理士会に、昭和三六年に入会し、同会が昭和四五年五月、名称を日本経営労務協会と改め、社団法人として認可された際には、同会の設立に参画すると共に、以後、同会の理事を勤め、同会の相談担当部長、同会付属の経営労務総合学院の京都地区教授として、経営労務相談、指導にあたつてきた。

(三)  原告は、経営労務コンサルタントの業務においては、信用がかけがえのないものと考えており、従来から「信用第一、人に迷惑をかけないこと」を信条としてきた。

(四)  しかし、本件記事掲載後、当時、経営労務コンサルタントとして顧問契約を結んでいた五社のうち二社から、理由を明示することなく解約され、また、日本経営労務協会内でも、本件記事内容が問題となり、同会の理事を辞任するに至つた。更に、たち吉社内においても、詳しい事情を知らない一般社員の間で、原告がいるからたち吉はだめだという評判がたつようになつた。

2  他方、<証拠>並びに前記認定の各事実を総合すれば、次のとおり認められる。

(一)  本件記事掲載当時、原告はたち吉の非常勤取締役にすぎなかつたが、同社会長である忠次郎の信任が厚く、原告の仕事のうえでたち吉関係の業務はかなりの割合を占めていたと推認することができる。また、原告は、昭和五九年三月、同社における労働組合の誕生、社長である岡田の狭心症による入院という事態を受けて、忠次郎、岡田の要請を容れ、常勤の労務担当専務取締役に就任していることが認められるのであり、その点からも、原告の業務の中心が、経営労務コンサルタントとしてのそれからたち吉におけるそれに移行しつつあつたものと推認することができる。

(二)  敏夫の辞任に至る過程において、原告の側にも、いくら忠次郎の頼みとは言え、本来忠次郎、敏夫間の個人的問題であり、原告の業務に含まれないような敏夫の愛人問題に係わつたり、あるいは、養子離縁届の提出にあたり、西口との電話において敏夫が離縁意思を撤回したと述べたことを告げず、また岡部に対し、届用紙の所在につき杉島弁護士の手許にあると答えるなど、誤解を招くような言動があつた。

3  前記1、2の事実を総合すれば、原告が本件記事部分を含む本件記事掲載により被つた精神的損害の慰謝料としては、八〇万円が相当であると認める。

4  前記のように、原告の業務の中心がたち吉のそれに移行してきてはいるが、原告本人尋問の結果によれば、原告はたち吉の専務取締役就任後も経営労務コンサルタントとしての活動を続けていることが認められ、右経営労務コンサルタントの活動においては、信用が最も重視されるものの一つであると考えられるのであるから、本件記事部分による信用毀損に対して、相当な信用回復措置を講ずることが必要であると考えられる。

5  右信用回復措置の方法、内容等を定めるにあたつては次の点を考慮すべきである。

(一)  弁論の全趣旨によれば、週刊サンケイは、全国的に幅広い読者層を有する週刊誌であるが、定期購読者の割合が高いというものではないと認められる。

(二)  回復措置が必要とされる原告の信用は、主として、経営労務コンサルタントとしてのものであるが、原告の経営労務コンサルタントとしての活動は、前記のとおり、四国地区を除く東京以西の地域というかなり広範囲に及んでいるものの、その対象はもつぱら企業、各種経営者団体等が中心である。

(三)  <証拠>によれば、たち吉社員及びその取引先は全国的範囲に及んでいることが認められるが、右証拠によれば、各社員及び取引先にはたち吉の社内報が配布されていることが認められるのであるから、全国規模のたち吉社員及び取引先に対する関係での信用回復は、たち吉社内報を用いることによつて、ある程度可能であると考えられる。

(四)  原告の活動の中心は、たち吉におけるものも、経営労務コンサルタントとしてのものもいずれも京都府内であると考えられる。

6  右の各点及び前記各事実を総合すれば、原告の信用回復措置としては、被告会社名をもつて、週刊サンケイに別紙謝罪広告(一)のとおり、日本経済新聞、京都新聞に別紙謝罪広告(二)のとおりの謝罪広告を、別紙謝罪広告掲載方法記載の方法で、それぞれ一回ずつ掲載すれば足りると認められる。

7  原告が、本訴における原告代理人弁護士二名に対し、昭和五七年八月二日、本訴の提起、逐行を委任したことは当裁判所に顕著であるが、右弁護士費用中本件と相当因果関係を有するのは二〇万円であると認めるのが相当である。

八被告らの責任

1  被告矢村は、「週刊サンケイ」の編集人として、本件記事部分を含む本件記事を「週刊サンケイ」昭和五七年六月三日号に掲載し、被告清水は、同誌の発行人として、同誌同号を発行したのであつて、右被告らは、原告に対し、共同不法行為責任を負うものと言うべきである。

2  本件記事部分によつて原告の名誉を毀損したことによる損害は、当時被告会社の代表取締役であつた被告清水及び同じく編集人であつた被告矢村が、それぞれ、その職務を行うにつき、あるいはその業務の執行につき生ぜしめたものであるから、被告会社も原告に対し、右被告らと連帯して賠償義務を負うべきものである。

3  以上を総合すれば、被告らは、連帯して、原告に対し一〇〇万円の損害賠償及び前記謝罪広告の掲載をすべき義務を負つているものと認められる。

九以上の次第で、原告の本訴請求は、被告らに対し、各自金一〇〇万円及び内金八〇万円に対する昭和五七年五月一九日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払並びに週刊サンケイに別紙謝罪広告(一)のとおり、日本経済新聞、京都新聞に別紙謝罪広告(二)のとおりの謝罪広告を別紙謝罪広告掲載方法記載の方法でそれぞれ一回ずつ掲載することを求める限度において、理由があるから認容し、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官大城光代 裁判官野崎弥純 裁判官團藤丈士)

取材経過及び内容一覧表

番号

(取材日)

取材先

(取材方法)

取材の端緒

取材内容

(五日)

たち吉社員と名乗る匿名の者

(電話)

相手方から被告会社編集部にかかつてきた電話

(1) 異常な降格人事の実態と対象者の氏名・部署・役職

(2) 派閥争いに絡んで敏夫が辞任したこと

たち吉銀座支店の練馬寮の社員五名位

(面接)

野原記者が練馬寮に出向いた。

(1) 異常な降格人事の事実

(2) 敏夫と岡田の二つの派閥があり、その間に原告が介在し、岡田が派閥争いに勝ち、敏夫が追放されたこと

(3) アダム・アンド・イヴの商標をめぐつて、たち吉とアダム・アンド・イヴ社との間で、未だに争いが続いていること

たち吉銀座支店の中堅管理職

(面接及び電話)

1の者から氏名と電話番号を教えられた。

(1) 敏夫の離縁について、敏夫がその意思を翻し、そのことを知りながら、原告が無理に離縁届を区役所に提出したこと

(2) たち吉がアダム・アンド・イヴ社との業務委託契約を解除した後に、一方的にアダム・アンド・イヴの商標を買い取ることになつたこと

(一〇日)

水野部長

(面接)

野原記者からのたち吉に対する取材申入れ

取材拒否

たち吉退職者(本件記者中のS氏)

(面接)

3の者から氏名と電話番号を教えられた。

(1) 敏夫の離縁について(3(1)と同内容)

(2) たち吉とアダム・アンド・イヴ社との業務委託契約の解除について、原告、岡田、忠次郎の三人で、取締役会にかけずに決定したということを水野部長が話していたこと及び右解除の内容証明郵便を原告が起案したということをたち吉出入りの寝具メーカーの関係者から聞いたこと

(3) たち吉がアダム・アンド・イヴ社からアダム・アンド・イヴの商標を買い戻したこと

東京たち吉の元デパート関係の社員

(面接)

野原記者が、たち吉退職者の中から探し出した。

(1) たち吉がアダム・アンド・イヴ社から「アダム・アンド・イヴ」の商標を買い戻すのに三億円が支払われ、その穴埋めのために降格人事が行われその中には敏夫も含まれているという噂が社員の間に流れていること

(2) 右買戻後も、敏夫から自らのあかしをたてるための公正証書がたち吉本社に送り続けられていること

(一七日)

たち吉京都本社の社員と名乗る男(本件記事「京都本社の社員」)

(電話)

相手方から被告会社にかかつた電話

(1) 本件記事中「京都本社の社員」の談話として引用している部分

(2) 敏夫と岡田との対立は、敏夫の離縁の時点から始まり、商標をめぐる争いまで続いていること

(3) 敏夫がたち吉社長を辞任して独立したときに「アダム・アンド・イヴ」の商標を持つていたことについて横領背任だと言われていること

(4) 敏夫辞任後の取締役会において忠次郎の社長代行案が出されているのに、原告が強硬に岡田の社長就任を推薦したこと

謝罪広告(一)

謝 罪 広 告

当社が発行した本誌昭和五七年六月三日号の一七四頁以下に掲載した株式会社たち吉に関する記事のうち、昭和五六年夏の同社の社長交代をめぐる紛争は、あたかも、山田雅夫氏が同社を支配せんとする意思のもとに仕組んだものであるかの如き印象を与える部分は、事実に反し、経営コンサルタントであり、かつ、同社の取締役である同氏に対する世人の認識を誤らせ、同氏の名誉を著しく傷つけるものであります。

よつてここに右記事中同氏に関する部分をすべて取消すとともに同氏に対して深くお詫び申し上げます。

山田雅夫殿

株式会社サンケイ出版

謝罪広告(二)

謝 罪 広 告

当社が発行した「週刊サンケイ」昭和五七年六月三日号の一七四頁以下に掲載した株式会社たち吉に関する記事のうち、昭和五六年夏の同社の社長交代をめぐる紛争は、あたかも、山田雅夫氏が同社を支配せんとする意思のもとに仕組んだものであるかの如き印象を与える部分は、事実に反し、経営コンサルタントであり、かつ、同社の取締役である同氏に対する世人の認識を誤らせ、同氏の名誉を著しく傷つけるものであります。

よつてここに右記事中同氏に関する部分をすべて取消すとともに同氏に対して深くお詫び申し上げます。

山田雅夫殿

株式会社サンケイ出版

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